2009年5月11日月曜日

「武相荘」へゆく

 5月の連休を利用して、「武相荘」(町田市指定史跡)へ出かけた。小田急小田原線 鶴川駅北口から徒歩15分。バスも出ているが、この程度なら散歩程度の距離だ。「武相荘」は、白洲次郎の自宅だ。日本国憲法が制定される過程で、日本側スタッフとして英文の翻訳やGHQとの間の連絡を務め、歴史に一枚かんだ男である。NHKがドラマ化し、生い立ちやケンブリッジの留学など前半部分を放映したが、後半の部分で、憲法との絡みをどう描くか、注目したい。

 武相荘のホームページの年譜では以下のように描かれる。「1946(昭和21)年 次郎44歳/正子36歳
 2月13日、GHQが新憲法総司令部案(マッカーサー草案)を日本側に渡す。15日、次郎はGHQのホイットニー准将宛に「ジープウェイ・レター」をしたため、検討に時間を要することを説く。2月下旬、2名の外務省翻訳官とともにマッカーサー草案を翻訳(外務省仮訳)。《原文に天皇は国家のシンボルであると書いてあった。翻訳官の一人に(この方は少々上方弁であったが)「シンボルって何というのや」と聞かれたから、私が彼のそばにあった英和辞典を引いて、この字引には「象徴」と書いてある、と言ったのが、現在の憲法に「象徴」という字が使ってある所以である。余談になるが、後日学識高き人々がそもそも象徴とは何ぞやと大論戦を展開しておられるたびごとに、私は苦笑を禁じ得なかったことを付け加えておく》(「吉田茂は泣いている」)。3月1日、終戦連絡中央事務局次長に就任。4日から5日にかけ、GHQビルにおいて徹夜で憲法案の逐条審議を行なう。6日、日本政府はマッカーサー草案をベースとした憲法改正草案要綱を発表。7日、憲法案作成の過程を「白洲手記」につづる。」

 武相荘は2001年10月に開館。10時から17時まで営業している。通常は月火が休みだが、祝日・振替休日は開館している。大きな武相荘の看板があり、坂を上がると長屋門が見えてくる。くぐると、受付兼ショップがあり、この並びに休憩所がある。壁には、大きな白洲のパネルが貼られている。さらに進むと母屋があるが、まず外を回る。庭の竹やぶには、筍が顔を出している。鈴鹿峠と書かれた道しるべがあり、小高い山を回る散策路が作られている。この後、母屋の玄関から入る。靴を脱ぎ、レジ袋に入れる。観光客がひっきりなしに来る。若い人は少ない。

 入ったところに、土間があるが、ここは板敷きになっている。ケーキやエビのソテー、ちらしずしなど食生活が再現されている。隣は、囲炉裏のある部屋。ここには白洲が好きだったという稲荷ずしや太巻き、食器類、が展示されている。その続きの部屋には衣装が展示されている。奥の書斎は正子の執筆の部屋らしい。障子のはまった窓から見える新緑がきれいだ。小さなすわり机に原稿用紙。本棚には文芸書がぎっしり。展示室には、白洲夫妻の写真や年表、食器類など。第一ギャラリーには、ダイニングテーブルと写真、装飾品の展示。母屋は、お茶処へとつながるが、一般人は、ここから外へ出る。お茶処はまだ時間が早いせいか、営業はしていなかった。離れに当たるのが、第二ギャラリー。外階段を上がった二階の小じんまりした部屋には、NHKのドラマのパネルが展示されている。この下には、物置があり、農具やタンス、臼を利用した新聞受けなどがある。

 周辺は、コンビニや住宅が密集していて、次郎や正子が歩いた昔の鶴川の面影は失われている。しかし、一家5人が生活し、客人を迎えたこの場所だけが、昔の農村の趣を残して、時間が停まっている。母屋は、床暖房が施され、導水管が敷居に張り巡らされていたという。欧米の生活が長かった夫妻の感覚が生かされているようだ。管理は、娘の牧山桂子がやっているらしい。

 じっくり見て、駅へ向かった。帰宅後、楽天へ白洲の伝記や写真集、著作を注文した。

2009年5月3日日曜日

演習事始め

 4月6日から大学院の演習が始まった。

 演習1は、修士論文の準備。演習2は、修士論文の作成。

 「こんなことを研究したい」ということは、入学試験の願書に添付される書類に記載することになっている。したがって、演習では、それに関する論文や判決を読むことになる。どんな文献があるか、調べるため、1・2回は、パソコンや書誌による調査方法を指導している。時間の関係で、自作の資料を配布し、さらに、研究室からパソコンを操作して、論文や判決を打ち出して、文献を選択させている。

 27日は、最高裁の判決をとりあげた。受講者の課題は著作権。著作権は、学部では無体財産法の講義で取り上げられるが、受講者はとってこなかったようだ。そこで、特殊講義の受講を促すとともに、最新のテキストを購入し、読むよう指導した。初回の報告は、調査不足や読みの甘さが目立った。

 演習2の受講者は、論文作成のための基礎作業は終えている。4月中は、受講者の希望に応じて、法制史の関連文献について検討をくわえた。成年後見制度を民法の中の制度とするか、社会保障の制度に関連付けるか、この中間の路線をとるか、といった点で構想が定まらないようだったが、27日に本人が決断を下して、5月から執筆を始めることになった